シタグリプチンは,dipeptidyl peptidase–4(以下DPP–4)阻害剤で,わが国では,2009年に2型糖尿病に対し製造販売承認を取得した新しい作用機序の経口糖尿病治療薬である。他の経口糖尿病治療薬に比し低血糖を来しにくく,現在幅広く使用されている。今回,シタグリプチンを過量服薬した1例を経験したので報告する。症例は60歳代の男性,母親と口論になり発作的にシタグリプチンを700mg内服し,全身倦怠感を呈して救急外来を受診した。簡易血糖は293mg/dLであり,輸液のみで入院となった。入院後,2時間ごとに簡易血糖を測定したが低血糖は出現しなかった。第2病日も低血糖を認めず,症状が軽快したため退院となった。シタグリプチン血中濃度は内服3.5時間後2.34mg/L,11.5時間後0.446mg/L,21.5時間後0.323mg/Lであった。過去の研究と照合し,本症例は12時間以内に最高血中濃度があったと推測され,その間に血糖低下を認めず,シタグリプチン血中濃度と血糖値の間に相関もなかった。したがって,腎機能が正常であれば,シタグリプチン過量服薬により,低血糖を生じるリスクは低い可能性があるが,今後さらなる評価を要する。 The dipeptidyl peptidase–4 (DPP–4) inhibitor, sitagliptin has been approved for manufacturing and distribution in Japan in 2009 as a new class of oral hypoglycemic agent for management of diabetes. At present, sitagliptin is usually administered at daytime because patients do not suffer from hypoglycemia after intake. In this case, we encountered a man with type 2 diabetes in his 60s who deliberately and compulsively ingested of 700mg of sitagliptin after an exchange of words with his mother. Afterwards, he visited the emergency room because of a sense of fatigue. His plasma glucose was 293mg/dL. He was admitted to the hospital and received intravenous fluids. Blood glucose monitoring every 2hr did not show any episodes of hypoglycemia. On the 2nd day of hospitalization, he did not show any episodes of hypoglycemia, and got less severe; he was subsequently discharged on the same day. Plasma concentration of sitagliptin at 3.5hr, 11.5hr, and 21.5hr after were 2.34mg/L, 0.446mg/L, and 0.323mg/L, respectively. Considering past studies, it is inferred, plasma concentration of sitagliptin was maximum no later than 12hr, and patients didn’t suffer from hypoglycemia. Patients who overdose on sitagliptin are at low risk for hypoglycemia if their renal function is normal. シタグリプチンは,dipeptidyl peptidase–4(以下DPP–4)阻害剤で,米国では2006年に,わが国では2009年に2型糖尿病に対し製造販売承認を取得した,新しい作用機序の経口糖尿病治療薬であり,中毒の報告は少ない。本剤単独では他の経口糖尿病治療薬に比し低血糖を来しにくく,現在幅広く使用されている。今回,シタグリプチンを過量服薬した症例を経験したので報告する。 症 例:60歳代の男性 主 訴:全身倦怠感 既往歴:2型糖尿病,脂質異常症,左変形性膝関節症 現病歴:糖尿病に対して近医よりグリメピリド3mg/日,メトホルミン750mg/日,シタグリプチン50mg/日を処方され,定時内服していた。今回は,母親と口論して,激高したため,これらに加えて,シタグリプチンを700mg内服し,服用後2時間半で救急外来を受診した。 来院時現症:血圧140/89mmHg,脈拍86/分,整,呼吸数12/分,体温36.2℃,SpO2 100%(室内気),意識Glasgow coma scale E3V5M6であった。身体所見では特記すべき異常所見を認めなかった。 血液検査・尿検査:Table 1を参照 来院後経過:来院時の簡易血糖は293mg/dL,血液検査で346mg/dLと低血糖を認めなかったが,出現する可能性を考慮し入院とした。入院後は2時間ごとに簡易血糖を測定したが低血糖を認めなかった(Fig. 1)。7.5%ブドウ糖液加維持液を1,000mL/日(ブドウ糖3g/hr)で輸液した。来院後は2時間ごとの血糖測定で低血糖を認めず,むしろ高血糖が持続し,血糖値200mg/dL以上で推移していたため,同日(内服11.5時間後)よりスライディングスケールによる血糖コントロールを開始した。第2病日,低血糖を認めず,全身状態も安定していたため,糖尿病でかかりつけ医に紹介受診として退院とした。 Plasma concentration–time profiles of sitagliptin (in milligrams per milliliter) and glucose (in milligrams per deciliter) after ingestion of sitagliptin. Plasma concentration of sitagliptin at 3.5hr, 11.5hr, and 21.5hr after were 2.34mg/L, 0.446mg/L, and 0.323mg/L. シタグリプチン血中濃度は内服3.5時間後2.34mg/L,11.5時間後0.446mg/L,21.5時間後0.323mg/Lであった。これはシタグリプチン50mgを内服した際の最高血中シタグリプチン濃度0.167mg/Lと比較して約2–14倍であった 1。なお,血中シタグリプチン濃度については東京女子医科大学救急医学教室にてガスクロマトグラフィー質量分析法で測定した。 DPP–4阻害剤は,インクレチンの不活化に関わるDPP–4を選択的に阻害することで血糖降下作用を示す 2。インクレチンはglucagon–like peptide–1(以下GLP–1)やglucose–dependent insulinotropic polypeptide(以下GIP)からなり,膵β細胞に作用してインスリン分泌を促し,膵α細胞に作用してグルカゴン分泌を抑制する。GLP–1は肝臓からのグルカゴン分泌や食欲も抑制し,満腹感を促進する 3, 4, 5。また,GLP–1によるインスリン分泌促進は血糖依存性であるため低血糖を引き起こすことはない。これらのGIPやGLP–1はDPP–4によって不活化される。したがって,DPP–4を阻害することで血中のインクレチン活性やその機能を促進して血糖降下に作用する。 シタグリプチンの常用量に関しては,Hermanらの研究で,シタグリプチンは,18歳から45歳の健常な男性に対して,1日800mgまで低血糖を生じず安全に内服が可能であった 6。さらにWilliams–Hermanらの研究では,2型糖尿病患者に対してシタグリプチンを1日100–400mg投与することにより,プラセボ投与と比較して低血糖を生じることなく,食後血糖値やHbA1cを改善した。以上のような経緯から,現在1日50–200mgが臨床診療で使用可能となっている 7, 8, 9, 10, 11, 12, 13。 DPP–4阻害剤による国内での過量服薬の症例報告は,2016年7月の時点でシタグリプチンの1例のみである 13。本症例では2時間ごとの血糖値測定で低血糖発作を認めなかった。さらに,血糖値と血中シタグリプチン濃度の間に相関はなかった。 Russellら 7は,2006–2013年でNational Poison Data Systemから抽出された650例中562例のDPP–4阻害剤過量服薬で死亡を含めた臨床的な副作用はなかったと報告している。残りの88例のうち77例は軽度な副作用,9例は中等度の副作用が生じた。同報告の症例数は多いが,各症例への言及がなく副作用についての詳細は不明である。また,同報告はDPP–4阻害剤の種類は不明である。 Darracqらの研究では,シタグリプチンを過量服薬した35人の成人で,低血糖は起こらなかったと報告している。その中でも,内服量がとくに多く,自傷行為として内服(各々700mg,1,800mg)した2人についても低血糖症状は認めなかったと記述されている。しかし,同研究では各症例についての血糖値の経過やシタグリプチン血中濃度の測定がされていない。 Russellらの報告とDarracqらの研究はいずれも情報に限界がある。それに対して本症例は,シタグリプチンにのみ言及し,血中シタグリプチン濃度の測定を行っている。 シタグリプチンのみを詳細に報告したFurukawaら 14の論文では,シタグリプチン1,700mgを内服した症例について,入院中合計で52gのブドウ糖投与を行っているが低血糖発作は認められていない。ただし,毎時間の血糖測定やシタグリプチン血中濃度は測定されておらず,血糖値とシタグリプチン血中濃度の関係は不明である。本症例は血中濃度の測定を行い,血糖値との関連について正確に経過を記載した点で過去にはない症例報告である。 健常者においては,血中シタグリプチン濃度は半減期9–14時間で低下していくとHermanら 6の研究で言及されている。他の研究では,投与1.5時間後から血中シタグリプチン濃度が低下した 1。本症例も,シタグリプチン血中濃度は内服3.5時間後2.34mg/L,11.5時間後0.446mg/L,21.5時間後0.323mg/Lであり,12時間以内に最高血中濃度があったと推測された(Fig. 1)。また,シタグリプチン50mgを内服した際の最高血中シタグリプチン濃度0.167mg/Lと比較して内服3.5時間後の血中濃度は14倍であり,少なくとも最高血中濃度は約14倍以上であったと推測される 1。その間に低血糖の出現を認めなかったことから,最高血中シタグリプチン濃度が高値であっても低血糖になる可能性は低いことが本症例からは示唆された。ただし,シタグリプチンの主な代謝経路が腎臓であることを踏まえると,腎機能に異常があれば,低血糖が生じる危険性は否定できない。本症例では腎機能低下を認めておらず,腎機能障害時の考察はできなかった。また,本症例は経過中に7.5%ブドウ糖液1,000mL/日(ブドウ糖3.0g/hr)の点滴を行っていること,HbA1c 12.0%と糖尿病のコントロールが不良の患者であり,随時血糖も高値となっていることが低血糖を生じなかった原因である可能性も否定できない。 DPP–4阻害剤は低血糖発作のリスクが高くない治療薬であり,今後の糖尿病治療にますます使用されることと思われ,それに伴い過量服薬症例も増えることが予測される。今後,腎機能障害を合併する患者の過量服薬に際して,低血糖発作を起こすリスクがあるか検討する必要がある。 今回我々は,シタグリプチン過量服薬の1例を経験した。経過中,低血糖発作の出現を認めなかった。腎機能が正常であればシタグリプチン過量服薬により,低血糖を生じるリスクは低い可能性があるが,今後さらなる評価を要する。 本症例報告に関する利益相反はない。
Read full abstract