Abstract
症例は80歳男性。自宅台所で内容不明の褐色の小瓶5本を見つけ,廃棄のため開栓したところ刺激臭のあるガスが噴出し失神した。家族が駆けつけると痙攣しており救急要請した。10分後救急隊現着時,傷病者の意識は回復しており自力歩行可能であった。傷病者からは硫黄臭がした。室内に硫黄臭はなかったが硫化水素中毒を疑い傷病者を搬送。病院着後脱衣,除染を行い救急外来に搬入した。傷病者は意識清明であり,事故当初のことも覚えていた。硫化水素中毒に準じ肺水腫等の発生を考え経過観察入院とした。第2病日の胸部レントゲン写真,血液検査等でも問題なく,第3病日に軽快退院となった。小瓶の分析を科学捜査研究所が行った。5瓶ともに内容は古い農薬であり,瓶のラベルは変色していたが内容物のサプロール(殺菌剤),スリトーン(成長抑制剤)等が判読できた。発生したガスを分析したところ硫化水素とイミダゾリジンチオンが検出された。カーバメート系殺虫剤が長期放置され経年変化によりイミダゾリジンチオンに分解,酸化され,硫黄基を含むこれがさらに分解され,硫化水素が発生したと考えられた。長期に農薬を放置すると,保管の状況によっては硫化水素等の中毒物質が発生することもあり,市民には長期保管しないことを喚起することが必要である。また救急の現場においては中毒物質による意識障害にも注意して傷病者への接触を図ることが2次災害防止の観点からも重要である。 An 80–year–old man found five small brown bottles with unknown contents in his house. When he opened the bottles for the sake of disposal, gas with an irritating odor spouted from the bottles, and he fainted away. His family called an ambulance because he was cramping. When an emergency ambulance crew arrived, the patient was already conscious and was able to walk. He smelled sulfurous. Under suspicion of hydrogen sulfide poisoning, the patient was admitted to our hospital to observe for possible occurrence of pulmonary edema or other abnormalities. Chest radiography, blood examination, and other tests performed on the second hospital day revealed no abnormalities, and the patient was discharged in good condition on the third hospital day. The small bottles were submitted to a forensic science laboratory for analysis. The bottle contained old agricultural chemicals. Analysis of the generated gas detected hydrogen sulfide and imidazolidinethione. It was presumed that the carbamate drug left in the bottles for a long period was decomposed into imidazolidinethione and was oxidized under secular change, and the produced imidazolidinethione having a sulfur group was further decomposed to generate hydrogen sulfide. 意識消失,痙攣発作等で救急要請されることは日常的であるが,その原因が薬物中毒であることもあり,鑑別診断が必要となる。今回我々は経年変化を来した農薬瓶から硫化水素が発生し,意識消失,痙攣発作を来した症例を経験した。農薬等も保管の状況によっては偶発的に中毒物質が発生することもあり,市民には農薬等を長期放置しないよう注意喚起が必要である。また救急の現場においても,2次災害防止の観点からも重要であり,興味ある症例と考えられたため報告する。 患 者:80歳の男性 主 訴:意識消失,痙攣 既往歴:高血圧症,前立腺肥大症があり内服加療中 現病歴:6月某日,本人の呻き声が聞こえたため2階から降りてきた娘が,台所で痙攣し意識消失している傷病者を発見し,救急要請を行った。傷病者の意識レベルは事故から3分程度で改善した。要請10分後に救急隊が到着した時には傷病者は自力で着替えができるほど回復していた。救急隊接触時,傷病者からは硫黄臭がした。傷病者は自力歩行で救急車に乗車した。当該救急隊より当院へ収容の依頼があり,硫化水素中毒を疑うとの報告を受け,その対応,準備を行った。当直医は病院着後,傷病者を脱衣し水除染を行った後,救急外来に収容した。 入室時現症:意識清明,GCS E4V5M6。会話可能な状態であり,意識消失した時のことも覚えていた。軽度の眼痛,頭痛を訴えるも,嘔気などなく,振戦,複視,チアノーゼ等は認めなかった。 来院時現症:BP 164/74mmHg,HR 59/分,SpO2 100%(酸素10L/分)。四肢麻痺なし。瞳孔不同なし,対光反射は正常,心音,呼吸音は清であった。モニター心電図上不整脈を認めなかった。除染後もまだ頭髪等より硫黄臭がした。 検査所見:来院時の血液検査所見をTable 1に示す。血液ガス所見は,酸素マスク10L/分投与でPO2 298mmHg,COHb 0.6%でありとくに異常を認めなかった。 入室後経過:傷病者より受傷時の状況を聴取した。妻に頼まれ台所にあった内容不明の褐色の小瓶5本を処分しようと開栓したところ刺激臭のあるガスが噴出し,失神したとのことであった。硫黄臭,意識消失,痙攣などの所見からも硫化水素中毒を疑い,これに準じた治療を行うこととし,肺水腫等の発生を考え経過観察入院とした。第2病日の胸部レントゲン写真,血液検査等でも問題なく,とくに訴えもなかったため第3病日に軽快退院となった。受傷時台所の近くにいた妻は無事であった。 事故発生時の当該救急隊は,硫黄臭から硫化水素中毒を疑い,救急搬送を決めた時点で毒ガス漏洩の可能性を考え通信指令室に消防隊の応援を要請し,司令室からは警察に連絡し消防とともに傷病者宅の調査を行った。当該の小瓶は傷病者宅の玄関先にビニール袋に入れて家族が放置していたが,かすかに硫黄臭がした。家族が容器の内容物を台所の流し台に捨てたため,台所周辺には硫黄臭がしていた。応援消防が傷病者宅周辺の異臭の調査を行ったが,異臭の拡大は認めなかった。当該消防は中毒を疑う薬物の調査のため応援消防隊に空ビンの回収を指示した。瓶は茶褐色で内容量は100mLであり,ラベルは古く茶褐色に変色し,商品名は判読できなかった。農薬と考えられたが主成分は不明であり,ラベルの成分表記の部分はサプロール(殺菌剤),スリトーン(成長抑制剤)等が何とか判読できた。担当警察は小瓶内容の分析のために警察本部科学捜査研究所で分析を行った。後日,当院より傷病者の健康被害を考え,科学捜査研究所に検出された薬物に関しての情報提供を依頼した。しかし分析結果の詳細な返答はなく,5本あった瓶の内容は同じで,噴出したものが気体であり,これを分析したところ硫化水素とイミダゾリジンチオンが検出されたとのことであった。小瓶内の液体の分析結果に関して回答はなかったが,内容物が変性し硫化水素が発生したことから,もとの内容物はカーバメート系殺虫剤が含まれているであろうとの回答を得た。 今回の農薬の瓶は未開封であり,もともと硫化水素が含まれていたとは考えられず,また事故の発生状況からも何らかの薬剤の反応による中毒ガスの発生も考えにくかった。長期保管した農薬から硫化水素が発生するならば同様の事故は今後も起こりうることになり,その発生機序について検討した。Fig. 1に瓶の内容として判読できたスリトーン 1,サプロール 2および代表的なカーバメート系殺虫剤であるマネブ 3の構造式を示す。スリトーンおよびサプロールの主成分であるトリホリンはいずれも硫黄基(S基)を含まず,これらが変化しても硫化水素は発生しないと考えられた。 The bottles contained old agricultural chemicals, and the discolored labels read the names of ingredients such as Saprol (fungicide) and Thritone (growth inhibitor). Neither includes a sulfur group. Example of carbamate drugs (Maneb). Maneb includes sulfur group. 今回の小瓶の主成分はカーバメート系殺虫剤と考えられ,Fig. 1の構造式に示すようにこれは硫黄基を含んでいる。Fig. 2にカーバメート系殺虫剤が分解,酸化されて発生したと考えられるイミダゾリジンチオンの構造式を示す。これにも硫黄基が含まれる。以上よりFig. 2に示すごとくカーバメート系殺虫剤が長期放置され,経年変化によりイミダゾリジンチオンに分解,酸化され,硫黄基を含むイミダゾリジンチオンがさらに分解され硫化水素が発生したと考えられた。 Imidazolidinethione: chemical name, molecular formula and structural formula. The carbamate drug left for a long period was decomposed into imidazolidinethione and was oxidized under secular change, and the produced imidazolidinethione having a sulfur group was further decomposed to generate hydrogen sulfide. カーバメート系殺虫剤から分解,酸化により生成されたイミダゾリジンチオンは通常は固形の物質で,常温では気化しないアミン臭のある物質である 4。工業用として塩素含有ゴム,とくにポリクロロプレン,クロロスルホン化ポリエチレン用加硫促進に使用されるもので通常農薬に使用される薬物ではない。これによる有害事象は接触性皮膚炎程度であり,意識障害,痙攣などの急性毒性は報告されていない。我々は症例報告やカーバメート系殺虫剤がどのような条件(年数,温度,圧力等)でイミダゾリジンチオンに変化するかなどの研究報告を検索したが見当たらなかった。また科学捜査研究所に改めて情報提供を依頼したがイミダゾリジンチオンに関する情報はなかった。イミダゾリジンチオンがさらに分解されて硫化水素が発生し,状況,症状からも高濃度の硫化水素に暴露された可能性が高い。後日,傷病者に今回の小瓶の放置期間について確認したが,本人もいつからあったのか不明とのことであった。カーバメート系殺虫剤以外の他の農薬に関しても,硫黄基(S基)を含めば,経年変化により硫化水素が発生する可能性は考えられる。 硫化水素(H2S)は無色の気体で腐卵臭のある無機化合物であり,肺や消化管粘膜から速やかに吸収される 5, 6。近年,硫化水素を発生させ自殺を図る事件が多数発生しており社会問題ともなった。石灰硫黄合剤の誤飲により硫化水素が発生し,急性中毒を引き起こすこともある 7。硫化水素は細胞内ミトコンドリアに存在するチトクローム酸化酵素と可逆的に結合することで組織での酸素の取り込みを阻害し,細胞呼吸を障害して低酸素症,中枢神経系細胞の直接障害を引き起こす 2。気道刺激が強い場合,暴露後24–72時間で肺水腫が出現することがあり,致死的暴露時は昏睡,呼吸抑制,振戦,複視,チアノーゼ,痙攣,頻脈が特徴的である 8。Table 2に硫化水素の濃度と身体への作用を示す。濃度が1,000ppmでは一呼吸以上でほぼ即死するとされ,ノックダウンと言われるくらい急激である 5。意識消失は脳幹の一時的な酸素欠乏のために生じると考えられる 9, 10。本症例では,おそらく500ppm以上の高濃度の硫化水素が小瓶より噴出したため,傷病者が一時的に意識消失,痙攣を来したものと考えられた。幸い発生した硫化水素の総量は少なかったため,肺水腫等の症状は見られなかったと思われる。本症例では硫化水素中毒に対する亜硝酸塩の投与などの治療は行わなかった。 また本症例では,当初救急隊からの情報では,小瓶から噴出したものが気体か液体かがはっきりせず,皮膚(眼)刺激症状があり,硫化水素と特定もできなかった。当直医は特定できない薬物中毒疑いとして病院着後,傷病者を脱衣し水除染を行った後,救急外来に収容した。硫化水素と特定できていれば脱衣,乾的除染で良いと考えられた。 救急隊の対応として,硫黄臭があり意識障害,痙攣を来した傷病者への接触に対して,より初期からの薬物中毒を念頭においた対応が求められる。状況把握で薬物噴出を確認しており,傷病者の家族および救急隊員の安全についてより配慮し,家族も搬送するべきであったかもしれない。受け入れ側の医師としても病院における2次災害の予防やメディカルコントロールとして近隣災害の可能性を指示できたかもしれない。 今回長期に保存した農薬瓶より発生した硫化水素による意識消失を来した1例を経験した。長期に農薬等を保管,放置すると,保管の状況によっては偶発的に硫化水素等の中毒物質が発生することもあり,その扱いには十分注意をするべきである。市民には農薬等を長期保管しないよう注意喚起が必要である。また救急の現場においては,中毒物質による意識障害にも注意して傷病者への接触を図ることが2次災害の防止の観点からも重要である。 本症例の要旨は,第42回日本救急医学会総会・学術集会(2014,福岡)にて発表した。 なお本論文に関し利益相反はない。
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