Abstract

この論文は能樂史の一部としての植民地能樂史研究を提唱している筆者が帝国二本の植民という空間において能と謡が如何なる展開を見せ、如何なる文化装置として作動したのかを探求する研究の一部である。この研究の特質上、植民地空間に形成された能と謡の実態を再構成する作業が優先され、それによって東アジア近代史あるいは芸能史として如何に解釈するのかという問題にアプローチすることになる。さらに、この研究は最終的には総力戦の時期に宣伝戦の下で「日本精神の国粋として国体(=天皇)を護持するための国民統合と報国に動員された能と謡が1945年以降に以前の歴史を消し去り日本の伝統芸能、古典(Canon)として日本という国民国家の偉觀を表象する装置として定着している現実に注目することになろう。いわゆる「帝国の芸術」が帝国解体後に新たに建設された国民国家の「伝統芸能」として変身した過程の問題である。 大韓帝国より15年早く帝国日本の植民地となった台湾では抗日運動が鎮圧された1902年以前に謠曲界の活動が始まっており、主だった担当者は植民地台湾を主導する日本人指導者·知識人総であった。台湾における日本の植民地統治が始まる初期に台湾に進出した日本人社会で謡会が胎動したのであるが、これは1905年に京城に統監府が設置されてここに派遣された日本人官吏や軍人あるいは教師などによって謡曲界が形成されたのと似ている。 ところで、1930年代になると膨張主義に走る大日本帝国は東アジアを激動の時代、ファシズムの時代、戦争の時代への追い遣った。台湾では霧社事件が鎮圧され植民統治が安定期を迎えたが、日中戦争の勃発は国民=臣民の統合を促し、学生を対象とする能や謡の奨励は「日本精神の国粋」を拡散し達成するための文化装置との動員であった。1938年5月に臺南高等女学校の修養科目に謡曲が設置されていた。この女学校では謡曲以外にも日本の茶道などを構内の「作法の家)」なる建物のなかで教育したが、ここには皐月会や南寶会などの学外の一般j人の謡会も催されている。どの植民地でも公會堂にて謡会が催されていたことを考えると、学校施設が公共財として使われたのであろう。このように、1930年代の帝国の能と謡は支配者と被支配者、決闘的日本人と制度的日本人の間に境界線を引く機能を越えて、模範的植民地出身の臣民を養成し、戦争遂行のための国民統合の装置として動員されることになる。

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